Kimra Iron's Ownd/鉄考書
木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。 詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。
- 荒井章三『ユダヤ教の誕生 「一神教」成立の謎』(講談社選書メチエ)から、* 第二イザヤは、世界の再創造を現出するマルドゥクの創造劇に眼を奪われている民に対して、ヤハウェこそが世界を創造したのであると、ヤハウェの力の優位性を主張した。しかし、彼の場合、決して世界創造のみを単独で取り上げるのではなく、あくまでイスラエルの救済とのかかわりを失うことはない。天地を創造する神は、またイスラエルを贖う神なのである。創造と歴史とは深く結びついているのである。 そして、この世界の歴史を導く神はヤハウェ唯一人である。彼は捕囚の民であるイスラエルを導く神から、世界の歴史を導く神へと、輪を広げるのである。その時点では、彼の神は栄光にみちた主である。しかしながら、彼はそこからその輪を再びイスラエルへと収斂させる。そして、さらにそのイスラエルの中心としての「僕」の苦難へと収斂させるのであr。 この「栄光」から「苦難」への転換はまさに逆説であり、謎としか言いようがないが、おそらく第二イザヤにとって、「栄光」から「苦難」へとくだり、そのことを通して神の栄光をあらわにするこの僕は、個人であれ、集団であれ、歴史の彼方に待望されるメシアとして位置づけられていたのではないだろうか。後にキリスト教が、イエスの十字架という苦難を通して人類の罪の贖いを説いたときに、この苦難の僕をキリストの予表として取り入れたことは周知の事実である(「使徒言行録」八章二六節以下参照)。
- 責任編集 下村寅太郎『世界の名著25 スピノザ ライプニッツ』における、工藤喜作/斎藤博訳 スピノザ「エティカ」から、*定理三二 われわれは、第三種の認識によって認識するすべてのことを楽しむ。しかもこの楽しみは、原因としての神の観念をともなっている。/証明 この種の認識から存在しうる精神の最高の満足〔この部の定理二七より〕、言いかえれば〔勘定の規定二五により〕最高の喜びが生じてくる。しかもその喜びは、精神自身の観念、したがってまた〔この部の定理三〇により〕原因としての神の観念をともなった喜びである。かくてこの定理は証明された。/系 第三種の認識から、必然的に神への知的愛が生じてくる。なぜなら、この種の認識から〔前定理により〕原因としての神の観念をともなう喜び、すなわち〔感情の規定六により〕神への愛が生じてくる。しかもこの愛は、〔この部の定理二九により〕神を現在的なものとして想像するかぎりの神への愛ではなくて、神を永遠であると認識するかぎりの神への愛である。これがすなわち、神への知的愛と呼ぶものである。(第五部から)*1 感覚によってそこなわれ、混乱した、そして知性的な秩序なしにわれわれに現れる個物から〔この部の定理二九の系を見られたい〕。したがって私は、このような知覚をふたしかな経験による認識と呼び慣れている。/2 記号から、たとえばわれわれがあることばを聞くか、読むかによってものを思いおこし、それについてある種の観念――その観念はわれわれがものを想像するときの観念に似ている――を形成することから〔この部の定理一八の注解を見られたい〕。/私はものを観想するこの二つの様式を今後、第一種の認識、言いかえれば意見opinioあるいは想像力imaginatioと呼ぶであろう。/3 最後に、われわれがものの特質について共通概念ならびに十全な観念をもつことから〔この部の定理三八の系、三九とその系、そして定理四〇を見られたい〕。これを私は、理性ならびに第二種の認識と呼ぶであろう。/異常二つの認識以外に、私がのちに示すように、第三種の認識がある。われわれはそれを直観知と呼ぼう。そしてこの第三種の認識は、神のいくつかの属性の形相的本質についての十全な認識から、ものの本質の十全な認識へと進むのである。(第二部定理四〇注解二から)*定理四二 至福は徳の報酬ではなく、徳そのものである。われわれは快楽を抑えるから至福を楽しむのではなく、むしろ逆に至福を楽しむから快楽を抑えることができるのである。(第五部から)
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