責任編集 下村寅太郎『世界の名著25 スピノザ ライプニッツ』における、工藤喜作/斎藤博訳 スピノザ「エティカ」から、
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定理三二 われわれは、第三種の認識によって認識するすべてのことを楽しむ。しかもこの楽しみは、原因としての神の観念をともなっている。/証明 この種の認識から存在しうる精神の最高の満足〔この部の定理二七より〕、言いかえれば〔勘定の規定二五により〕最高の喜びが生じてくる。しかもその喜びは、精神自身の観念、したがってまた〔この部の定理三〇により〕原因としての神の観念をともなった喜びである。かくてこの定理は証明された。/系 第三種の認識から、必然的に神への知的愛が生じてくる。なぜなら、この種の認識から〔前定理により〕原因としての神の観念をともなう喜び、すなわち〔感情の規定六により〕神への愛が生じてくる。しかもこの愛は、〔この部の定理二九により〕神を現在的なものとして想像するかぎりの神への愛ではなくて、神を永遠であると認識するかぎりの神への愛である。これがすなわち、神への知的愛と呼ぶものである。(第五部から)
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1 感覚によってそこなわれ、混乱した、そして知性的な秩序なしにわれわれに現れる個物から〔この部の定理二九の系を見られたい〕。したがって私は、このような知覚をふたしかな経験による認識と呼び慣れている。/2 記号から、たとえばわれわれがあることばを聞くか、読むかによってものを思いおこし、それについてある種の観念――その観念はわれわれがものを想像するときの観念に似ている――を形成することから〔この部の定理一八の注解を見られたい〕。/私はものを観想するこの二つの様式を今後、第一種の認識、言いかえれば意見opinioあるいは想像力imaginatioと呼ぶであろう。/3 最後に、われわれがものの特質について共通概念ならびに十全な観念をもつことから〔この部の定理三八の系、三九とその系、そして定理四〇を見られたい〕。これを私は、理性ならびに第二種の認識と呼ぶであろう。/異常二つの認識以外に、私がのちに示すように、第三種の認識がある。われわれはそれを直観知と呼ぼう。そしてこの第三種の認識は、神のいくつかの属性の形相的本質についての十全な認識から、ものの本質の十全な認識へと進むのである。(第二部定理四〇注解二から)
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定理四二 至福は徳の報酬ではなく、徳そのものである。われわれは快楽を抑えるから至福を楽しむのではなく、むしろ逆に至福を楽しむから快楽を抑えることができるのである。(第五部から)
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