イスラームのためでもアラーのためでもありません。私はひとつの異教徒にすぎません。しかし他者への、外部への想像力のために、創造力のために、「イスラーム国」について考えるために。北川誠一、前田弘毅、廣瀬陽子、吉村貴之(編著)『コーカサスを知るための60章』(明石書店)から、

カスピ海に面したダゲスタン共和国はロシア連邦最大の石油産業の中心地である。ダゲスタンは北コーカサスのなかで民族的にもっとも複雑な地域であり、こうした背景から、常に民族政策が国内政治において重要な役割を果たしてきた。国家権力をめぐる民族間の競争も激しく、稀に民族同士の流血惨事も発生している。例えば一九九二年にノヴォラスク地区で発生したチェチェン・アキン人とラク人との領土を巡る流血衝突は、連邦軍が介入するほどの深刻な事態であった。ラク人指導者の逮捕に抗議して、首都マハチカラで大規模なデモが繰り広げられ、ラク人組織が反政府運動を宣言する事件も起きている。/しかし、民族間対立の激化を防ぐためにダゲスタン指導部は様々な措置を講じており、その一環として、一九九四年に修正されたダゲスタン憲法には各民族の間で権力を分割する原則が明示された。また、集団決議機関に該当する国家評議会は、一四の大きな民族集団の代表で構成される。/ダゲスタンでは伝統的なイスラームに反対して原理主義的なイスラームを唱える、いわゆるワッハーブ主義問題も深刻であった。一九八〇年代末に活動を開始したイスラーム過激派は、少数ではあるが着実に勢力を増していき、一九九八年には山岳カダル地域で「独立イスラーム領」を宣言し、世俗当局と対立した。さらに翌年には、チェチェンから越境してきた武装集団と協力し、イスラーム国家建設を目指すジハード(聖戦)を展開した。こうした状況を受け、一九九九年からロシアではワッハーブ主義活動を禁止する法案が制定されるなど、宗教過激派に対する当局の対応も厳しくなっている。

民間人を含め約八万人の犠牲者をだした第一次戦争の結果、チェチェンはロシアから完全自治を認められた。戦争末期、ロシア軍のミサイル攻撃によって爆死したドゥダエフの後を継いでマスハドフが大統領に選ばれた。だが彼は戦争で廃墟に化したチェチェン国家を再建するほどのカリスマと指導力に欠けていたため、チェチェン社会には混乱状態が続いた。/さらに戦争期に中東アラブ諸国やアフガニスタンなどから義勇兵として参戦していたムジャーヒディーンたちによって、チェチェン全土で急進的なイスラーム主義が拡散した。一般に「ワッハーブ派」と呼ばれる集団は、預言者ムハンマドの時代を模範としたイスラーム国家建設を目指す一方、チェチェン土着のスーフィズムを真のイスラームから逸脱したものだと批判した。チェチェン各地で両宗派間の衝突が相次ぎ、グデルメスでは流血事態にまで発展した。/また、ワッハーブ派は中東イスラーム過激派組織から寄せられる資金援助を利用して追随者を増やし、次第にチェチェン政府の要職を占めていった。当初チェチェンがイスラーム国家になることには反対していたマスハドフ大統領も、ワッハーブ派や彼らに同調するシャミリ・バサエフなどの強硬派野戦司令官の要求に屈し、シャリーアに基づくイスラーム国家の宣言を余儀なくされた。

現在チェチェン抵抗派は、一層イスラーム色を強めつつ、ロシアへの抵抗を異教徒に対する聖戦(ジハード)に転化させることにより、ロシアの意図通りに、国際世論から疎外される道を歩んでいるかのように見える。二〇〇五年三月に抵抗派のマスハドフ大統領がロシア特務機関に射殺された後、チェチェン最高シャリーア法廷議長を務めていたアブドゥルハリム・サドゥラエフが大統領職を受け継いだ事実も、抵抗派のイデオロギーがナショナリズムから次第にイスラーム的なものに変質していく証拠と見られ、チェチェンの一般住民たちからも批判の声が揚がっている。/こうした紛争の性格変化は、チェチェン問題を少数民族の独立運動ないし人権問題として捉えてきた人々を困惑させかねない。しかし、ロシア当局が断定するように、チェチェン戦争の本質をイスラーム原理主義の根絶にのみ求めることは、正鵠を失っている。なぜなら、そうした主張は、この紛争が少数民族の純粋なナショナリズムに端を発したものという真実の一端を曇らせるからである。(玄承洙)

Kimra Iron's Ownd/鉄考書

木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。  詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。

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