「イスラーム国」について考えるために、酒井啓子・吉岡朋子・山尾大(編著)『現代イラクを知るための60章』(明石書店)から、

1991年に発声した湾岸戦争は、欧米の対イラク政策を180度転換させた。これまでイラン革命の防波堤としてイラクを支援してきた欧米は、湾岸戦争をさかいにフセイン政権を敵視するようになった。/そこで欧米が目をつけたのが、イラクの反体制運動であった。欧米は、フセイン政権崩壊後のイラクの受け皿を準備するために、反体制派の活動にテコ入れを行うようになった。当時、大きな勢力を誇っていた反体制派は、イスラーム主義勢力に加えて、クルド人勢力、共産党などの左翼勢力、元バアス党員で反体制派に転じた勢力、そしてリベラル派であった。/反体制派の活動が国際的に展開するなかで、活動の拠点をイランからシリアや英国のロンドンに移したダアワ党は、リベラル派との共闘関係を構築していった。こうして1980年代後半に「祖国イラクの組織」であるという意識を持ち始めたダアワ党は、1990年代には祖国への愛国心を強めていった。反対に依然としてイランに拠点を置いていたSCIRIは、イスラーム革命にこだわり続けた。(山尾大)

2003年3月、米軍のイラク侵攻によって、バアス党政権が崩壊した。その後のイラクで政治の中核を占めるようになったのは、欧米で反体制活動を続けていた政治エリートたちの陰に隠れて祖国に帰ったイスラーム主義勢力であった。トロイの木馬に乗り込んでイラクに凱旋帰国したのだ。戦後、イラク再建の指揮をとったのは、米国国防総省が管轄する「連合国暫定当局」(CPA)であった。CPAは、凱旋帰国した元反体制派の政治エリートを「イラク統治評議会」に登用した。イスラーム主義勢力からは、後に首相となるダアワ党党首イブラヒーム・ジャアファリや、イラク・イスラーム最高評議会(ISCI、第23章のSCIRIが名前を変えた政党)のアブドゥルアジーズ・ハキーム議長らが登用された。/問題は、彼らが、反体制派政治エリートとして国外で著名であっても、イラク国内での知名度は極めて低かったことである。反対に、旧バアス党態勢を支えた政治エリートたちは、「脱バアス党政策」の名のもとで、戦後イラクの政治プロセスから排除された。/こうしてCPAは、表向きには占領という形態はとらず、あくまでもイラク人の代表であるイラク統治評議会が統治している、という形式を作り上げたのである。だが、言うまでもなく新生イラクにおいて実験を掌握していたのは、CPAであった。/これに対して異議申し立ての声をあげたのが、シーア派宗教界を中心とするイラク国内社会であった。彼らはイラク国民の代表を民主的な選挙で選ぶことを要求した。それはイラク人の大きな支持を獲得していった。こうしたイラク人による民主化要求を無視できなくなったCPAは、当初の予定を前倒しにして、2004年6月に主権をイラク人に委譲し、新たに形成された「イラク暫定移行政権」がイラクの統治を開始した。そして2005年1月30日、新たなイラク憲法を制定するための制憲議会選挙が行われた。/この選挙で、シーア派宗教界の公園のもとで過半数を取って政権党となったのが、第23章で取り上げたダアワ党やISCIを中心とするイスラーム主義政党の連合、「イラク統一同盟」であった。以上のような経緯で、イラク現代史初のイスラーム主義政権が成立したのだ。(山尾大)

バアス党政権下では、アンバール県ラマーディのバニー・ドレイム部族がフセイン政権を支える共和国防衛軍に数多くの兵士を送り込んだ。イラク戦争後にイラクの治安は大いに乱れ、多国籍軍のみならず多くのイラク人がテロや抗争の犠牲となった。西部地域は、戦後の混乱に乗じて反米武装勢力が国外から流入する経路となり、あるいは重要な拠点となった。西部地域は経済制裁下の時代にも強盗などが出没し危険な地域であったが、イラク戦争以降は強盗のみならず、反米・反占領軍意識が強烈に育まれ、襲撃、誘拐、殺人が頻繁に繰り返され、あるいは米軍との戦闘による被害が数多く出た。フセイン政権末期から、宗教心が強いとされるファルージャにはワッハーブ勢力の浸透が指摘されてきた。これらの地域はイスラーム世界における反米闘争の象徴となり、数多くのテロ組織、義勇兵が内外から集結し、あるいは旧政権の反米抗争の拠点となった。その顕著な例が、アンバール県を中心として部族勢力の肥後を受けてイラクのアルカイダにより樹立された「イラク・イスラーム国」組織であった。/しかしながら、アンバール県に浸透していたイラクのアルカイダ勢力が同地において幅をきかせ、処刑、強迫、不法な経済行為などを繰り返すに至り、2006年から2007年ころから、スンナ派の部族勢力や地元の反政府勢力は「覚醒評議会」と呼ばれる組織を構成し、イラクのアルカイダを取り締まり始めたのである。強大な力を保持しながらも反米武装勢力を鎮圧できなかった米軍は、この動きを支援してイラクのアルカイダと部族勢力を分断することに成功し、この覚醒評議会は10万人ともいわれる勢力になった。(大野元裕)

イスラーム国家体制論とはどのようなものだろうか。立論形態や詳細は異なるものの、イラクで生み出されたイスラーム国家体制論に共通しているのは、「イスラーム法学者(ウラマー)の最高権威が国家の最高指導者となるべきである」、という主張である。この主張は、イラクのシーア派イスラーム政治思想だけではなく、スンナ派の現代イスラーム国家論とも通底している。/では、なぜウラマーの最高権威が国家の最高指導者になる必要があるのだろうか。それにはもちろん理由がある。近代化にともなって世俗化が進行するなかで、これまで政治社会的に大きな役割を果たしてきたウラマーの影響力が衰退した。その結果、イスラーム法が支配する範囲も縮小してきた。こうした状況に対して、イスラーム法解釈のエキスパートであるシーア派宗教界の最高権威が国家の最高指導者となることで、イスラーム法に照らし合わせた適切な統治を行うことが可能となる、というわけだ。/イラクでは、英国の委任統治とそれに続く王政期に、国家の統治機構と社会の急激な近代化が進行した。それにともなって生じた世俗化によって、シーア派宗教界やウラマーの政治的役割が衰退した。こうした状況に対して、近代国家へのアンチテーゼとして、イスラーム国家体制の必要性が叫ばれたのだ。(山尾大)

Kimra Iron's Ownd/鉄考書

木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。  詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。

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