多谷千香子『「民族浄化」を裁く -旧ユーゴ戦犯法廷の現場から-』(岩波新書)から、
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チトーの下では、それまでセルビア人として扱われていたマケドニア人とモンテネグロ人も、独自の民族として認められ、遅れてモスリム人も、民族として公認された。/ちなみに、連邦制が崩れてゆく中で、「六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの連邦」というフレーズがよく用いられたことを記憶している読者も多いだろう。しかし、モスリム人も入れれば、六つの民族になる。このフレーズができたのは、一九六三年のボスニア共和国憲法および一九七四年のユーゴ連邦憲法でモスリム人が民族として公認される前であるため、モスリム人は勘定に入っていないのである。/それはともかく、共産党の唯物論と宗教は相容れないはずななの、チトーは、宗教を民族のアイデンティティーとして認めた。そして、ほぼ民族ごとの共和国が設けられた。セルビア共和国の中には、アルバニア人が多数を占めるコソヴォ自治州と、ハンガリー人が多数のヴォイヴォデイナ自治州が設けられ、共和国と自治州の地位は平等になった。/このようにして、モスリム人は、チトーの下で民族として認められて陽の目を見たが、はじめは差別を恐れてセルビア人、クロアチア人、またはユーゴスラヴィア人として申告するものが多かったという。イスラム教徒が、胸をはって、モスリム人と申告するようになったのは、チトー施政が終わりに近づいて以降、つまり一九八〇年近くなってからである。それからは、異なる民族間の結婚は次第に当たり前のこととなり、過去の残虐行為も遠い出来事として人々の記憶から忘れ去られていった。
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