容貌について、人種について、四方田犬彦『見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行』(作品社)から、
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イスラエルに行く前からわたしに気がかりなことがひとつあった。はたして自分の眼でアラブ人とユダヤ人をきちんと識別することができるだろうか、という問題である。/かつて韓国に渡航する前には、わたしも多くの日本人と同様に、韓国人と日本人の容貌の違いについて、ある種のステレオタイプの認識を抱いていた。しかしソウルの街角で無数の韓国人の顔を眺めているうちに、それが思い込みにすぎず、逆に韓国人が日本人の容貌をめぐって抱いてきたステレオタイプを知らされて、その荒唐無稽に仰天したことがあった。帰国して長い時間が経過したが、わたしはいまだに容貌だけから日本に居住している韓国人を日本人から識別することができない。わたしの周囲には、確信をもって識別できると豪語する人もいるが、その確信は単に、数多くの韓国人に接した体験がないという事実に起因しているように、わたしには思われる。/ではユダヤ人とアラブ人の場合は、どうだろうか。わたしはわたしなりに、両者の容貌をめぐって漠然とした映像を抱いていたが、現実にイスラエル社会で自分が出会うことになる人々は、その映像からどれほどかけ離れているのだろうかという関心が、わたしのうちにあった。/テルアヴィヴに生活し、キャンパスで学生たちと話したり、街角を歩く人々を観察したりしているうちに気がついたのは、同じユダヤ人といっても実に多種多様な人間がいるという事実だった。西欧の諷刺画に描かれていたような、巨大な鉤鼻のユダヤ人など、実に稀にしか見かけることがなかった。ある者は金髪に緑の眼をしていたし、別のある者は漆黒の髪に太い眉をしていた。白い肌に雀斑だらけの背中をした女性もいたし、どう見てもアフリカの黒人ではないかという男性もいた。ユダヤ人を(かつてナチスドイツが強引に定義したように)人類学的な意味での特定の人種として定義することが無意味であるのは、一目瞭然だった。
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実際にユダヤ人とアラブ人のいずれの側でも、眼前の相手がどちら側の民族に属しているのかを咄嗟に判断できないという事態は、しばしば起こっているようである。アラビア語に堪能なアラブ系ユダヤ人がパレスチナの村に乞食として住みつき、人々の喜捨を受けながらひそかに情報活動を行ったり、密告者を組織していたという事実があかるみになったことがあった。わたしが到着した直後にも、エルサレムのヘブライ大学の近くを深夜にジョギングしていたアラブ人の学生が、ハマスの放った刺客からユダヤ人と勘違いされて殺害されるという事件が起きている。学生の父親はパレスチナ側に立って人権活動を邁進してきた弁護士であっただけに、その胸中が察せられた。
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