Kimra Iron's Ownd/鉄考書
木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。 詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。
- 西の暦の二〇一五年一〇月一〇日一七時二九分、わたしのケータイに着信があったんだけど、そのときはちょうどバスに乗ってたものだからケータイにでられなかったんだけど、もうすこし正確にはバスに乗ったばかりで、もしかしたらまだバスはでないんじゃないかしら、まだ外にでてケータイをかけられるんじゃないかしら、着信にかけなおせれるんじゃないかしらって考えてバスの運転手にすぐにでるかどうかを尋ねたんだけど、 あと五秒ででる。 ってことだったからすぐにケータイをかけるのはあきらめて、バスに乗って、揺られて、目的のバス停で降りてから着信にかけなおしたんだけど、その発信は一七時五四分。たてつづけに葬式があったってことだった。一人はね、わたしが直接に知っている、わたしが子供のころからよく知っている、よくお世話になってきたという人間で、それはたてつづけってことのもう一人についても同様なんだけど、だけどその一人についてなら、かつての聖戦を知っているという意味でなら、その人が最後になるんじゃないかしらってことでね。そういう人物が亡くなったってこと。そういう人物が亡くなったことで、わたしが直接に知っている人間のなかでかつての聖戦を知っている、経験しているという人間はいなくなったんじゃないかってこと。聖戦がおこなわれている時代を生きていた人間がいなくなったことにはならないにしても、つまり聖戦が終えられるまでに生まれた人間がわたしの直接に知っているなかではいなくなったということにはならないにしても聖戦で自分もそのときには子供ではなくなっていて帝国を相手に戦ったという人間についてならば、ということ。それに、その亡くなった人というのは、ほんとうなら聖戦において自爆を決行するはずだったってことなの。爆弾をつめるだけつんで、片道切符でもって敵にぶつかっていくということ。帰ってはこないということ、帰ってきてはならないはずだった、そのはずだったんだけど順番がまわってくるまえに聖戦が終わってしまったってわけ。 その人の関係で、他にも、たとえば南の海のむこうのジャングルのなかで食べるものもないままに戦って、戦わされて、骨と皮とだけの木乃伊みたいになってもかろうじて生きて帰ってこられた人とか、たとえば帝国によるこれまでになかった、これまでの世界が変わってしまう、それほどの新しい爆弾の光を浴びた、とても遠くに小さな光を見ただけだったんだけど、その小さな光がこの世のものとは思えないくらいのいきおいで一瞬にして熱と風とつきつけてきて火傷をおった人とか、わたしは直接に知ってたんだけど、その人たちはすでに先だっていて、その自爆のはずだった人が亡くなったことでほんとうにいなくなったってこと。だから、これもひとつの、聖戦の終わりなんじゃないかって。わたしは聖戦そのものなんか直接に知っているはずもないからね。聖戦が終わって、その戦後というものすらも終わったとか騒がれるようになってから、この世界に生まれてきたわたしでしかないから。だけど、だからこそわたしのなかで、そういう人物が亡くなったことを、そういう人物がいなくなったことを聖戦の終わりとしてうけとめて、それによってもちろん始まりへ、聖戦を再び始めるためにってことではもちろんなくて、聖戦なんて、聖の文字がつけられるのであろうがなかろうが戦争であることにはちがいないんだけど、戦争なんて、二度と繰り返されてはならないということのために、それをはじめるために、わたしが、ほんとうに。直接とか、経験とか人生とかに依存しないためにも。わたしの想像力こそが、創造力としても、問われなければならないってことで。そのために、たてつづけってことでもうひとりの亡くなった人物についても。 その人は女性で、聖戦を直接に知っているとか聖戦を戦ったとかいうんじゃないんだけど、だからってもちろん聖戦を知っているかどうかで死者をはかりにかけるということじゃなくて、その人についてもわたしは自爆のはずだった人と同じくらいに直接に知っていたということで考えているんだけど、その女性は、亡くなる数年前から認知症にかかっていて、そういうことになってからわたしは彼女と直接に話をしたことはなかったんだけど、彼女のお世話をしている人間から話を聞いたぶんには、認知症というよりも、彼女の記憶が、彼女にとってのこの世界が、現実が、聖戦の始められる前の時代に戻ってる、あるいはそこに執着しているようなことになっていたみたいでね。年齢的にそのころが、ごくごく単純にまだまだ少女で、大人ではなかったってことにもよるんだろうけれど、でも、聖戦が始められたことでそれまで暮らしていたところから別のところへ租界しなければならなくなってね。それもあって、聖戦の始められる前への執着が生じたみたいなのね。彼女についても考えることで、聖戦を、たとえばそれが自爆とかいった男根的な、あまりに男根的なもとして考えるだけでなしに、それとは違った、それを相対化できる考えかたもできるんじゃないかってこと。もちろんそれによって聖戦なんて、戦争なんて、二度と繰り返させないために。
- 国枝昌樹『シリア アサド政権の40年史』(平凡社新書)から、*米国政府は一九七九年以来、シリアをテロ支援国家として認定している。/国際社会では大多数の諸国が九・一一直後の〇一年九月に国連安保理で採択された、いかなる国もテロ行為を実行しても、支援しても、黙認してもならないとする国連安保理決議一三七三などに基づいて対応措置を採ってきている。だが、その決議にはテロとは何かに関する規定がない。シリア政府はこの決議がテロについての規定を避けた結果、テロの理解について曖昧さが残り、その結果、恣意的な適用が可能になるとして強く反対した。/シリアは、テロには強硬に反対する一方で、他国が自国の領土を占領しているとき、その占領に反対する行為はテロの範疇に入れるべきではないと主張する。/現在、米国政府はシリアがレバノンのヒズボッラとパレスチナのハマスを支援していることを、極めて深刻な懸念事柄だと非難している。*民衆蜂起以来、欧米諸国はアサド政権に対し制裁を重ね、アラブ連盟とその関係諸国も各種の制裁をシリアにかけている。これにたいしてシリア政府と関係者たちは、アルジャジーラやアルアラビーヤなどの報道機関が事実に反する報道を行うだけでなく、シリア政府の崩壊を狙う国際的陰謀の一翼を担って捏造報道も繰り返し、反政府運動を煽り続けている、国際社会はそのような偏向した報道を無批判的に受け入れていると声高に叫んでいる。彼らはこれらの制裁には正当な理由がなく、国民を苦しめるだけの誤った政策であり、シリアはこの国内外の危機を必ず乗り越え、さらに強靭な国に成長すると声を張り上げる。/そんな彼らの言い分には理由がないわけではない。/シリアはすでに三〇年間米国から経済制裁の対象とされ、〇四年以来その制裁がいっそう強化されている中で国民は耐え方を知っている。さらに、ハーフェズ・アサド時代の一九八〇年代は政治状況が暗く、国内経済は低迷し、外貨準備高は僅かに一週間分の輸入を賄うだけのレベルまで枯渇する時期を経験したが、それでもシリアはその危機を乗り越えた。シリア社会には抵抗力がある。
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