Kimra Iron's Ownd/鉄考書
木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。 詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。
- 土井敏邦編『パレスチナはどうなるのか』(岩波ブックレットNo.713)から、*二〇〇六年一月に行われたパレスチナ評議会選挙で、国際社会の予想に反してハマスが勝利し、イスラエルや欧米社会が最も恐れたハマス政権が誕生した。しかしそれは、オスロ合意以後のイスラエルのパレスチナ社会への対応、そしてファタハを母体とする自治政府のあり方がもたらした帰結であった。/パレスチナの住民は、自分の町から隣町に行くにも検問所で何時間も足止めされ、兵士から屈辱的な扱いを受け続けている。また、パレスチナ人をイスラエルから切り離すための「分離壁」、パレスチナ人地区に点在するユダヤ人入植地、それをつなぐユダヤ人専用道路の建設で土地や水資源は奪われ、地域と共同体も寸断されて「くに」としての一体性さえ奪われている。イスラエルの封鎖政策で経済は窒息状態にある。/一方、そんな“占領”下の窮状を訴えても、自治政府は状況を改善する力もない。それどころか、「和平」の代償としてはいてくる海外援助で高官たちは私腹を肥やし、内部の利権・権力争いに明け暮れている。そんな状況下で生きなければならない住民たちが、「武装闘争」によって溜飲を下げさせてくれ、手厚い福祉事業で生活の窮状に手を差し伸べ、清廉なイメージのハマスに投票するのは自然の流れだった。ハマス圧勝の背景には、イスラエルの“占領”と、それに打つ手もなく腐敗しきった自治政府、その母体であるファタハの現状があったのである。/選挙でのハマスの勝利後、世界は一斉に、「ハマスよ、テロと決別せよ。イスラエルを承認せよ」と叫ぶ。だがパレスチナ人は逆に、「ならば、日常的に自分たちを苦しめている“占領”(パレスチナ人はこれを“国家テロ”と呼ぶ)を止めよと、なぜ同時にイスラエルに要求しないのか」と反論する。/ハマスが政権についても武装闘争路線を放棄せずイスラエル承認を拒むと、欧米諸国はこれまで自治政府を支えてきた海外援助を凍結し、イスラエルも間接税の受け渡しを拒んだ。それによってハマス政権は、公務員の給与さえ支払えず、政府運営さえ難しくなった。経済制裁に踏み切った欧米諸国には「これによって住民の生活はさらに逼迫し、民意はハマスから離れる」という読みがあった。過去にも、ハマスらが自爆テロを行うたびにパレスチナ人地区は封鎖されてきた。封鎖で仕事を失い物資輸送も困難になる住民は生活苦に追い込まれ、それが封鎖の大義名分を与えたハマスへの反発となり、その人気は凋落するはずだったが、結果はそうはならなかった。国際社会は、その過去の経験を“学習”していないようにみえる。/たしかに給与もなく生活に窮した住民のハマス政権への不満は高まった。しかし人びとがもっと深い怒りを抱いたのは、欧米諸国の“二重基準”と“欺瞞”だった。/「アメリカは『中東に民主主義を』と声高に叫び、そのために、トイラクに戦争までしかけた。私たちはまさにその民主主義実現のために、海外の監視員たちも驚嘆するほど公正な選挙でハマスを選んだ。それなのにアメリカやこれに追随する国々はわたしたちが民主主義を実現したことに“懲罰”を加える。なぜ世界は住民が選んだハマスにチャンスを与えようとしないのか」という不信と怒りである。(土井敏邦)
- 印東道子(編著)『ミクロネシアを知るための60章』(明石書店)から、*ミクロネシアの独立に関しては、二つの論点がある。一つは、なぜここに四つの政治単位が生じたかである。もう一つは、自由連合とは、独立なのか否かという論点である。/最初の論点は、独立の経緯から考察する必要がある。当初、ミクロネシアは一つの国家として成立することが前提であった。ミクロネシアが初めて独自の公的制度を創出したのは、1965年の上下二院からなるミクロネシア議会発足である。それは、ミクロネシアにとて希望にあふれた民族意識高揚のときであった。それ以前には、マリアナ、トラック、ヤップ、パラオ、ポーンペイ、マーシャルの各地にアメリカの行政組織が置かれ、アメリカの高等弁務官が行政の最高責任者として任命されていた。/ミクロネシアの「将来の政治的地位」に関する公的な交渉が始まったのは70年からである。当初ミクロネシア側では、アメリカとの自由連合を結成するにせよ、ミクロネシア側が主権を確保し、アメリカ以外の国家とも自由な外交交渉が可能である政体を要求した。これに対し、アメリカは、主権を伴わない自治領の制定を提案した。その内容はおおむね現在の北マリアナ諸島自治領の政体に該当する。/政治的亀裂はミクロネシア住民の側から発生した。コンパクト・グラント(第28章)の配分をめぐる確執が主たる原因である。トラック、ヤップ、ポナペの軍事的利用度は、核艦船の寄港地を予定されているパラオ、核実験場とミサイル迎撃基地のあるマーシャル、軍事基地グアムに近接する北マリアナに比して低い。したがって、マーシャル(1986年自由連合)とパラオ(94年自由連合)は、独自の国家形成を行うことにより、より有利なコンパクト・グラントの配分を確保する道を選んだ。北マリアナはコモンウェルス(86年)となることにより、アメリカの直接保護と市民権獲得の道を選んだ。ミクロネシア連邦は、ヤップ、トラック、ポナペ、コスラエを糾合して86年、自由連合国となった。この場合の自由連合は、軍事権と軍事に関わる外交権をアメリカに委ね、他の権限はそれぞれのミクロネシア側が保持することとした。かくてミクロネシアの四つの政治単位の成立は、アメリカの文壇政策の結果ともいえるが、基本的には、この地の弱体な経済問題に起因すると判断される。/さらに、ミクロネシアの人びとの価値観にも触れておかねばならない。ミクロンシアの統一を強く呼びかけてきたのは、その中部に位置するトラック、ポナペの住民であった。この両島は、地理的にも近接し親近感を共有する。しかし、パラオ、マリアナ、マーシャルの島じまはそれぞれはるかな遠距離に位置し、文化的にも近縁性が少なく、「ミクロネシア人」という民族的共感に薄い。やや深刻な利害の対立があれば、容易に分離する要因を当初からはらんでいたといえるであろう。アメリカが鋭く衝いたのは、ミクロネシア世界のこの弱点であった。/次の論点は、はたしてミクロネシアの自由連合は独立国家の成立と認識しえるか否かという点である。これは、国家の独立とは何か、という概念から判断されねばならない。17世紀、H・グロチウスの国際法定時以来、国家とは当該政治単位において、対内的最終意思決定権および対外的意思表明権を有することを条件としてきた。具体的事項として換言するならば、それは、最高裁判権(国内)および外交権(国際)を指す。ミクロネシアの場合、内政に関しては完全自治を実現しているので問題はない。しかし、軍事権、外交権の一部を保有しないことはm、独立国家の条件としては議論を伴うところである。おそらく、古典的国家論の解釈からするならば、独立とは見なされないであろう。しかしながら、北マリアナを除き、ミクロネシア諸国は、多くの外国との条約締結など外交交渉を持ち、90年代には、それぞれ国際社会最大の権威的組織である国際連合の加盟国となった。このような事情からするならば、独立概念については、現代国際社会の実際に応じ、現実的な解釈をほどこさねばならないかもしれない。つまり、ミクロネシア諸国を独立国家と見なさないことの方が非現実的というべきであろう。以上は、云うまでもなく、法・政治的独立論の展開であって、経済・財政的な側面からする独立論を含むものではない。/現代社会には、ニュージーランドとクック諸島およびニウエなど、ほかにも自由連合国が存在する。これらとも比較しつつ、国際的認識という視点から自由連合の独立性を考察する必要がある。また、それぞれの国家的主権を抑制することによって成立したEU(ヨーロッパ連合)のような事例がある。現代世界においては、従来になく相互依存性が強まっていることは誰もが知るところである。したがって、これらを参照事例としつつ、現代世界における独立とは何かという理解を確定するほかない。(高橋康正)
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