たとえ、徴兵制は絶対におこなわれないということだった、そのとおりのことになているとはいえ、社会の格差がどんどんひらいていって、貧しいものは富めるものから人間扱いされないくらいになって、貧しいものがごくごくあたりまえの権利をえるために、仕事として職業として軍隊とか基地とかをあてにするしかなくなるとしたならば。戦争にでもいって一花咲かせるしかない、たとえ華と散ることになろうとも神の風にもよるだろうから、そんなことにしかならない、そんなことになるとしたならば。それは徴兵制がおこなわれなくても徴兵制になっている、それ以上ですらある、そのようにしむけられている、おのずからにも、自己責任によるようにも、そういうことになるでしょう。そのために、もちろん富めるものは、戦争にいくまでも、かかわるまでもないことになるでしょう。それどころか富めるものは、自分だってほんとうは戦争にかかわりたいし、いきたい、にもかかわらず富める自分がいくのでは貧しくて他にあてにできるところのないものたちの、たとえ一人分でも奪ってしまうことになるだろうから、むしろ、富める自分は戦争にかかわらないほうがいい、そのほうが貧しきもののためになる、貧しきもののためにこそ富めるものは戦争にかかわらない、そんな善意とか良心とかの権力によることになるでしょう、そんな権力があたりまえのようにはびこることになるでしょう。そしてやがては、戦争には富めるものはかかわらなくてもいい、貧しいものが富めるもののかわりに戦争をしてくれる、それどころか富めるものが貧しいものに戦争をさせてやっている、貧しいものが富めるもののために守って、戦って、死んでもいい、死んだほうがいい、死ななければならない、そんなところがあたりまえのことになるでしょう、再び。まるで、戦争も戦争のための武力も放棄して国際平和を希求する平和憲法が改められることなく護られていながらも、法案でもって解釈でもって戦争がおこなわれても憲法違反にならないということのように。まるで、平和憲法が改められないからこそ、奴隷根性による偶像崇拝のごとくに護られたままだからこそ、法案も解釈もいくらでもどのようにでも生じてくるのだというように。
Kimra Iron's Ownd/鉄考書
木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。 詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。
- 福間良明『焦土の記憶 沖縄・広島・長崎に映る戦後』(新曜社)から、*新川明は、琉球大学を中退したのち、沖縄タイムス社に記者として勤務したが、労働組合を結成したことが経営陣の不興を買い、一九五七年末から数年間、鹿児島支局や大阪支局に左遷された。新川はこの「不当配転と懲罰的処遇」に怒りを覚えながらも、「米軍支配下の暗鬱な世界から、形はどうであれ憧れの「祖国日本」に脱出した解放感と充実感」を抱いたという。/その本土で新川が目にしたのが、六〇年安保闘争であった。当時、新川は大阪に滞在していた。日米安全保障条約の改定問題は、岸信介内閣による強行採決への反感も相まって、広範な反対運動を引き起こした。一九六〇年六月一五日には、全学連主流派が国会議事堂に突入して警官隊と衝突、そのさなかに東大生の樺美智子が死亡した。大規模な街頭デモや集会は、東京に限らず、大阪でも頻繁に行われ、反安保の機運は高揚していた。だが、新川はそれに違和感を抱いた。そこで新川が感じ取ったのは、「この国民的な規模の安保反対運動の中で「沖縄」問題がまったく抜け落ちている現実」であった。新川はそのときに抱いた疑念を次のように記している。//「沖縄返還」をスローガンの一端に掲げているとは言え、そこで主張されるのは要するに日本が米国に従属し、米国の軍事戦略の一翼を担うことに反対しているにすぎない、という現実であった。「日米安保は日本を米国の戦略に組み入れることであり、日本全体を“沖縄化”することが狙いである」という主旨の訴えを聞いた時、私は耳を疑った。判りやすい言葉で安保反対の気運を盛り上げようとする単純な気持ちから出た言葉かも知らないが、単純であるだけにその言葉を発想させる意識は恐ろしく思えたのである。/その論法は日本にとっての安保とは何か、という点では判りやすい理屈ではあるが、沖縄の現実が抱えている問題とは関わりのない議論であり、「沖縄返還要求」というスローガンの空虚さを浮き立たせるだけのものでしかなかった。/安保問題とはすぐれて「沖縄」問題であり、「沖縄」問題とはとりもなおさず安保問題であるという、今日なおかわることのない極めて基本的な認識の欠如がその論法を成り立たせている。/日本国民にとって「安保」とは何であり、「沖縄」とあ何であるのか、という原初的な問いを眼前の現実は私に投げかけ、その答えを自らみせつけているようであった。
- 寝てないで、ちゃんと話を聞いてもらえないかね。 寝てなんかいないよ。 寝てるよ。 このところ寝てないものだから、そう見えるんだろう。 寝てないのはおたがいさまだよ。 だからそう見えるだけで、寝てるんじゃない。黙って、静かに、目を閉じて拝聴しているということだよ。 ほんとかね。 話を続けたまえ。 聞いてくれないと、きみから話をはじめたというのに。 続けることが大切なのだよ。 長いものに巻かれればいいだけであるかのような圧倒的多数による与党によって戦争のおこなわれることが採決が強行されてしまった以上は、たとえパフォーマンスのような、歌詞だか台詞だかのようなものにすぎなかったのだとしても、その強行採決をくいとめる、ほんとうにくいとめるということで行動をおこしてきた以上は、わたしが、何らかの責任をとるべきだというのかね、きみは。 聞いてるよ、ちゃんと。 それとも、どういうことなのかね、きみは。 責任をとるということがね、それほど悪いこととは思えないということでね。もちろんいったんは敗北を認めてのことになるとはいえ、しかしそれほどに弱気なことには、消極的なことにはならないんじゃないだろうか。それもひとつの抵抗になるんじゃないかということなんだがね、ろくに責任もとれない連中への、責任のとりかたも知らないような連中への抵抗として。 それでは、随分と低次元な抵抗になるんじゃないかね。 低次元であれ何であれ、いやであろうがなかろうが、それが自分の抵抗しているところなんだし、それが自分自身でもあるということだ。 そうかね。 しかし、わたしがきみに責任をとるべきだ、とったほうがいい、と考えたのはもしかしたら強行採決をくらうにあたってきみがこれまでの行動を諦めてしまって、これまでのすべてを終わらせてしまうんじゃないか、祭が終わったように、すべては祭にすぎなかったというように、そんな不安もなきにしもあらずだったからというところなんだがね。 行動は、続ける。 どうやら、そのようだ。 強行採決が撤回されるまで行動はこれまでどおりに、つづける。 そういうことならば、わたしの考えも改めざるをえないというものだよ。 そうかね。
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