おっさん

 のことなんだから、おっさんのことだけを書いたほうがわかりやすいことくらい、わたしだってわかっていないことなどあるはずもないんだが、しかしほんとうにおっさんのことだけを、おっさんのことばかりを書いているんでは、文字に書いているとはいえ、言葉として声のみのことではないとはいえ、おっさんおっさんおっさんおっさんと書いているとまるでおっさんのことではなくて、

 御産

 のことのようにも思えてくるだろう。

 おとうさん

 とうさん

 そればかりでもおとうさんが営んでいるにしても働いているにしても、その会社とか工場とかが倒産する、倒産した、そんなことに思えてくるみたいに。

 押韻よりも、形式的に詩的であることよりも、何か、もっと象徴的なことかね。

 そういうことでもいいだろう。それはそれでいいということになるのかもしれないが、しかし、それはそれでいいにしても、どうしても、おっさんのことだけを書くわけには、書けばいいということにはできなくてね。どうしても、おっさんとは異なるところをおっさんにぶつけざるをえなくてね。もちろんそれによっておっさんのことをあきらかにするためだとしても。しかしそれでいて、何かを、何であれ、ぶつけられることでおっさんがとんでいってしまうのならば、けしとばされるようなことになるのならば、それはそれでもかまわないのだが、ぶつけたほうのことを書けばいいのだが。そうなればそれで、また異なるところをぶつけることになるのだが、そんなことを何度か繰返していれば何度か繰返すまでもなく今度はおっさんのほうを、かつておっさんにぶつけたところに、まるで復讐のようにも、しかしもちろん復讐なんかじゃないんだが、復讐なんて忘れてしまっているままにぶつけることになるかもしれないけれど。結局はそういうことによって、世界の外へ、外についてを考えているわけだから。そういうことによってこそ、それが可能になるんだから。それが書くことなのだから。そうでなくてどうして書くことができたものか。わかっていることだけを書くことが、書きたいことだけを書くことが、どうしてそれだけで書くことになるのかね。ましておっさんについてならなおのこと。おっさんは世界の外にいるということなのだから。もしかしたら追放されているのであれ排除されているのであれ、もしかしたら生贄のように人柱のように、英霊のようにであれ。いいように利用されて酷使と搾取とのもとにいるのかもしれないのであれ。何はともあれ外にいるおっさんについてを考える以上は、どうしてそれだけを書いてすませられたものか。それではおっさんを、ほんとうに、神のようにも、しかしあまりにも現実的に権威にまつりあげてしまうことにしかならないだろうに。たとえ夢に見るようなことにすぎないのであろうとも、それならなおのことというものだろう。夢に見る主体がおっさんではないのであれ、みずからが神であるような権力志向ではないのであれ、それならなおのこと。


 おっさん

 みたび

 たとえばケータイとかパソコンとか、

 つまりインターネットでもって、

 だれでもいつでもどこでも、

 世界のすべてについてを知ることができる、

 そんなことになっているでしょう。

 しかしこの世界に、

 ケータイもパソコンももっていない、

 もちたくてもてない、

 そういった人間はゴマンといるわけでしょう。

 にもかかわらず、

 なんでもだれでもいつでもどこでも、なんて、

 どれだけの世界を、人間を排除してなりたっているものか。

Kimra Iron's Ownd/鉄考書

木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。  詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。

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