不可解な夢を見たおぼえはなかったのだが、目をさますと、六月の男は椅子に腰かけたままで、背中を丸めて机の上へ、両腕でもって頭を抱えこむようにしてうつぶせているのだった。向かって、左の角から、細い首をのばして、いささかうなだれた先の頭の白い蛍光灯が机の全体をほとんどまんべんなく照らしていた。六月の男の頭は、ひらかれたノートの上だった。向かって、中央の綴目よりもやや右に、口からの涎が親指くらいの大きさに垂れていた。しかしまだ、涎はノートにしみてはいなかった。まだ、膨らみがあるままに、ノートに縦書きされてある文字の並びの上に横たわっていた。

 太陽が西からのぼるよ

 その文字の並びの、

 西

 の上下を覆って涎は横たわっていた。ノートには、そのひらかれたところには文字の並びと涎との歪んだ十文字以外には何も見あたらなかった。十文字以外には、細い幅の薄い罫線のひかれてあるの白紙がひろがっているだけだった。六月の男は、まるで眠っていたあいだに、夢を見ていたあいだに、迂闊にも、白地に血でも尿でも糞でも漏らしてしまったというように、処女についても童貞についても神話を汚してしまったというように、いささかの恥じらいとともに涎を指先で拭おうとするのだったが、それによって文字も消してしまうことになりかねないだろう、西の文字と、その上下の文字を。そもそもどうして、

 西

 なのか。どうして、

 太陽が西からのぼるよ

 と書いたのか。どうして東からではないのか。そのおぼえは、つまりは眠りにつくまえのおぼえは六月の男にはまるで見あたらないのだったが、文字は、その形は、癖は、自分でも自分が書いたものにまちがいないだろうと考えられるのだった。それは、昨年か、一昨年か、ある殺人事件にあたって犯人が警察にもメディアにも挑戦状としてつきつけた手紙に書かれてある文字ととても似ている形とか癖とかだった。そのことを学校において、クラスメートとか同級生とか、教師たちからも、あんな文字を書くものはそうそう他にいるもんじゃないとあやしまれて、ひやかされて、しかし六月の男は否定も反論もできないで苦笑するしかないのだった。それくらいに似ていることはまちがいのない、そうそう他にいるもんじゃない形とか癖とかだった。それでもって、

 太陽が西からのぼるよ

 その、終わりの、

 よ

 ということから考えるならば、太陽が西からのぼることを誰かに話しかけていることになるのだろうが、しかし六月の男には、

 よ

 でもって終わっていること、



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