不可解だったのは夢のほうではなくて、ある朝、現実のほうだった。それはまるで太陽が東のほうからではなくて西のほうからのぼるようだった。それはまるで、この国にかぎったことではなくて、歴史をひもとくまでもなくてかつての戦争で原爆が投下されているというのに、投下されて数日後に戦争が終わることになるという必然以上に、以前に、実験として覇権があからさまにもあらわだったというのに。だから二度と原爆が投下されることがないように、それどころか原爆がつくられることもないように、原爆をつくらないどころかどこでだれがどのようにつくろうともそれを所有することもないように、と神にだって象徴にだって誓ったのにもかかわらず、原爆が投下されて終わった、終えられたことになっている戦争からの反省による戦争と戦争のための武力の放棄をたからかにもうたった平和憲法にのっとって、かえって、戦争さえしなければ何をやったっていい、原爆だってつくったっていい、どこでだれがどのようにつくろうとも所有したっていい、投下してしまったら戦争になるだろうけれど、原爆の投下される戦争なら戦争どころか世界も人類も終わりのときだろうけれど、まるで矢でも鉄砲でももってくるように槍でも降ってくるようにでも、血の雨でも黒い雨でも降ってくるようにでも、世界が滅亡をさけられるだけの人でも神でももちあわせていなかったことによるようにでも。



 沖縄の基地とか、

 国会の採決とか、

 いろいろと考えながら、

 詩のように、

 どうして考えないでいられようか、

 もちろん誰もが自分の生活に追われている、

 自分のことしか考えられないくらいに、

 たとえばフェイスブックなんかにいちいち美味いものを食ったことをこれ見よがしにもアップしなければならないとか、それでいて本音は自分の食った美味いものの値段を誇示したいだけとか、そんなことに追われているから、

たとえば芸能人はどうしていつまでたっても象徴のように非政治的でいられるのか、だからこそ、カネとチカラとにものをいわせてでかい顔ができるとでもいうように、でかい顔をできるためにこそというように、

Kimra Iron's Ownd/鉄考書

木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。  詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。

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