愛情とか心配とか、いまさら、いまどき、信じられたものではないでしょう。たとえば親が子にたいして、愛情とか心配とかをそなえているにしても、いだいているにしても、それはほんとうは、ほんとうに子にたいしてのことではなくて、子が何かをしでかしたならば、やらかしたならば、それでもって親のほうが、親のほうこそがさらしものにされるから、子は死刑にするわけにはいかないから親がかわりに死刑になればいいというくらいにも。そういうことにならないために、そういうことにさせないために、愛情とか心配とかが、ある、あるに決まっている、親だから、ないはずがない、子にたいして、あたりまえのことだ、結婚をして、妊娠をして出産をして育児をして、それらを芸能人とか有名人とかがインターネットに自由に表現していることと同じくらいにそれはあたりまえのことだ。しかしそういうことになっている、そういうことにしているだけのことでしょう。ほんとうは自分がさらしものにされたくないだけのことなのに、子にたいしてではなくて親としての自分についての愛情とか心配とかでしかないというのに、そのために愛情とか心配とかいうことで、子にたいして支配して束縛しているだけのことでしょう、あわれみでもって差別的であるようにも、あまやかして従順に飼いならしているだけのようにも、しょせんはカネとチカラとだけにものをいわせているにすぎないように。
*
だから、いまどきの子たちは、いまさらながらも、やたらと親を尊敬して、親に感謝をして、そういうことになっているのでしょう。親がほんとうは自分のために、私利私欲のためも同然に愛情と心配とをそなえているどころか、いだいているどころか、そもそも結婚も妊娠も出産も育児も私利私欲のためも同然であるという、ほんとうは子についてなど婚約とか結婚とかの指輪程度にしか考えていないという、そんな弱みにつけこむように、親から子へのほんとうではない愛情とか心配のように、それを真似て、学んで、ほんとうであるはずがない、ほんとうでなくてもいい、口先だけでいい尊敬と感謝とでもって、利用できるだけ利用して、酷使して搾取して、そういうことなんでしょう。
*
さらしものになるのは、インターネットのような匿名とか無責任とかの表現の自由によるとはかぎらないでしょう。それ以前からの、匿名でもない、無責任でもない、そういうことにはなっているにしても、しかしかえって、インターネット以後においてならなおのこと、そんな表現の自由がインターネットを見くだすことで特権となって、権力にすらもなっている、そういうことにもよるというものでしょう。そんな特権と権力とによる表現の自由がどれだけほんとうに自由であるものでしょうか。インターネット以前から、たとえば芸能人だの有名人だの、芸能界だの芸能事務所だの、カネだのチカラだのに、どれだけ自由でいられたというのでしょうか。
0コメント