六月の男が結婚をしたならば、女と夫婦となったならば。たとえそれまでどんなに優しかったのであろうとも、細やかで、一指だに女に触れられなかったのであろうとも、それならなおのことかもしれないが、それはただただ結婚をするまで耐えてきたにすぎないというように、女に暴力をふるうようになって、虐待して、支配して差別して、やがては、遅かれ早かれ殺してしまうだろう。支配も差別もしたくもない以上はこうするしか、殺すしかなかったのだ、支配からも差別からも、支配されることも差別されることも飼いならされることもあってはならないのだからというように。ヒモではないのだから、そして、しかしヒモであってなにが悪いのかというように。カネとチカラとの奴隷ではないのだから、奴隷であってなにが悪いのか。

 六月の男に子供ができたならば、男であれ女であれ、遅かれ早かれ、たとえ生まれたての水も滴るどころか、血まみれで糞尿まみれで滴って、生んだ女の目の前のことであろうとも、もっと血まみれに、もっと糞尿まみれに、骨も肉も塗れるくらいに、臓も脳もおかまいなしに塗れるくらいに、そもそもいったいぜんたい何が女から生まれてきたものなのか、糞尿が漏らされたにすぎないのではないのか、それくらいに暴力をふるって、虐待して、支配して差別して、あっというまにも殺してしまうだろう。たとえば未来を恐れるがあまりに、それでいて未来を待ちかねるように。

 たとえば六月の男が子供だったころにはただただ未来でしかなかった、現実には、世界には、それどころか夢にすらも存在しなかった、手にしたこともなかったどころか目にしたこともなかった、そんなケータイだのパソコンだのを子供があたりまえのように手にして、六月の男が身も骨も削って粉にして汗水流して糞尿も垂らして働いて得たカネもチカラも、やはりあたりまえのように、水が上から下に流れて自然であるというように、奪われて、毟りとられていくのならば。それを恐れて、それでいて、待ちきれないで。

 六月の男は、ほんとうは九月に死んでいるべきだったのだろう。死んでいるはずだったのだから、死んでいてもちっともおかしくなかったのだから。たとえ生まれてから百日も、三月もたたないうちだったのであろうとも。龍による炎にのまれてでも。炎から生じた龍にくわれてでも。六月の男は、だから、毎年毎年九月を飽くことなく繰返す。まるで祭りのようにも、祝いのようにも。毎年毎年九月にだけ、死を思い、それでもって他の月は何を思っていることはもちろんのこと、何をしたってかまわないというように、死なないのならば何をしたって。なぜなら自分は、自分だけは、殺しはしない、殺すはずがない、そんなことを信じていられる人間は、自分は、自分には殺すことができる、自分だけでも、そんなことを誇示する、予告する、それと同様に胡散臭いものでしかないから。

Kimra Iron's Ownd/鉄考書

木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。  詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。

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