たとえパフォーマンスにすぎないのであれ、ファッションにすぎないのであれ、ほんとうに体を、命を、賭してまで法案に反対するつもりはないのであれ、ハンストでもってあわれみをこうようなことよりは。

 むしろ法案が強行にも採決してからのことをすでに考えていたっていいでしょう。それはすでに敗北を認めているということには、それだけの弱気ということにはならないでしょう。

 まるで民主主義における多数決の原理が長いものに巻かれればいいだけのようなことになっているとはいえ、圧倒的多数による与党という現実にはかわりないのだから、まるで頭数だけに、さながらカネとチカラとだけににものをいわせるような強行採決のなされるかもしれないことは充分すぎるくらいにもありえないことではないのだから、それは充分すぎるくらいに現実的なのだから、それにたいしての対策を少しでも多くの様々なる人々との対話によって考えることは間違ってはいないでしょう。

 ほんとうに法案を反対しているのならば。

 反対をしたという思い出をつくりたいというだけのことではないのならば。反対をしたことの終わりを迎えること、終わらされること、それでもって思い出にしたい、それこそ求めて欲していたことだ、そんなことではないのならば。

 ほんとうに反対しているのならば。

 長いものに巻かれればいいだけのことと化しているような民主主義に、多数決の原理に、そんなものに従順である必要はないでしょう。直接的民主主義として、間接的民主主義への批評としてのデモであるのならば、パフォーマンスとしてでも、ファッションとしてでも、思い出のためでも、民主主義の理想をほんとうに求めて欲しているということならば。

Kimra Iron's Ownd/鉄考書

木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。  詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。

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