柄谷行人『探求Ⅰ』(講談社学術文庫)から、
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東洋哲学も結局「哲学」である。これもまた、対関係としての他者をを排除するところに成立している。どこでも、内省――すなわち自己対話=弁証法――から出発する思考は、その結論がイデアであろうと空であろうと、独我論(モノローグ)であるほかない。いうまでもないが、東洋のブッダも孔子も、そのような独我論をイロニカルに否定することによって、あるいは主客未分の純粋経験といった神秘主義をイロニカルに拒否することによって、ひとを《他者》に向かい合わせようとした。単純にいえば、彼らは「他者を愛せ」といったのだ。真理を愛することは、結局、それを可能にしている共同体(コミュニティ)を愛することである。ところが《他者》は、そのようなコミュニティに属さない者、言語ゲームを共有しない者のことである。そのような他者とのたい関係だけが、彼らの関心事であった。/しかも、彼らはソクラテスやイエスと同様に書かなかった。書かないということは、音声的なコミュニケーションの直接性を優位におくからではない。書くことは、われわれを一般的他者との関係に「事象の根拠」を問う弁証法に向かわせてしまう。だが、彼らは、そのような弁証法=哲学体系を拒否するために、他者との一対一関係の対話にのみ終始したのである。/むろん、ブッダにせよ、孔子にせよ、彼らのいうことは、まもなく「共同体」に回収されてしまった。そして、それは彼ら以前からある「神秘主義」に吸収されたのである。神秘主義は、私と他者、私と神の合一性である。それは《他者》を排除している。いいかえれば、“他者性”としての他者との関係、“他者性”としての神との関係を排除している。そこにどんな根源的な知があろうと、私と一般者しかないような世界、あるいは独我論的世界は、他者との対関係を排除して真理(実在)を強制する共同体の権力に転化する。西田幾多郎やハイデッガーがファシズムに加担することになったのは、偶然(事故)ではない。
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