ある朝、灰色の狒々だか猩々だかのごとくに寒々と目をさましたら、戦争だった。不可解な選挙によるのでは決してなかったのだが、一票の格差についての違憲が認められても政教分離についてと同様に断罪されることにはならなかったから戦争のために憲法も、平和という概念すらも改められて、原発も稼動して基地も設置されてステルスだって捨てられたってありあまるほどで、そして若くも、幼くも、かつての戦争を知らないどころか知るはずのないところからが陪審制のごとくに徴兵制に強制的に連行されて拉致されて慰安のごとくだった。かつての戦争を知っているものは経験を誇りつつも愛国のもとに年金にこびへつらってとりいっていて、年金は政教分離どころか政治と何がどう異なって違っているのかもわからないままに、積極的にもわからないほうが純粋で純潔で純血ですらあるかのように宗教へと布施に献金にされていた。若くも、幼くも、徴兵制にも陪審制にも抗するためは年金を払わないでみせることよりも、年金を、保健のもとで薬物によって中毒にされるどころか洗脳までされて生かさず殺さずにされる酷使と搾取と同様に、聖体拝領のごとくにありがたがってあがめたてまつっている年寄から奪うことを先行させるだけだった。表現よりも伝達として、奪うためには、盗むためには、殺すことしかできなかった。カネとチカラとで陰に陽に徴兵制から逃れられる愛と幸とによる家族についてと同様に、むしろ、愛も幸も、家族も、結婚も妊娠も出産も育児も、離婚すらもカネとチカラとによるものだという誇示のために証明のために徴兵制も陪審制も不可欠だと可決されたのだというように、徴兵制から逃れられなかったところで人を殺すことにはちがいないのだからというように。
Kimra Iron's Ownd/鉄考書
木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。 詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。
- 帝国に抵抗する革命に、 象の頭 がいることは、革命に参加しているものにおいても支援しているものにおいてももちろんのこと、そうでなくとも、知らないものはいないくらいだった。もちろん帝国のほうにおいてなら、それだけおそれられていたということだ。たとえば一〇万の賞金がかけられていたのだから。革命から帝国のほうへ小銃をもって投降したものには一〇〇の賞金があるとともに。そのときに象の頭を、つまりはその首を断って持参したものにはさらに一〇万というように。それとともに、それほどおそれることはないのだ、象の頭など、とも帝国から吹聴されたものだった。そもそも、そのオヤジさんが軍人として戦争におもむいているあいだにオフクロさんがうんだのだったが、戦争から戻ったオヤジさんは象の頭をまのあたりにして我を忘れてしまったのだ。何しろオフクロさんも自分も象の頭ではなかったから。オヤジさんは怒りのあまりに、というよりも恐れるがままに象の頭を首から断ってしまおうとしたのだが、それが象の頭の、象の鼻の下の、象の口からの長い牙でもって守られることになったのだ。長い鼻の両脇の長い牙の片方の一本がオヤジさんに折られただけですまされることになったのだ。そんな程度のことなのだから、おそれることはない、どうしておそれられたものか。もちろんそんなことはなかったのだ、ほんとうは。象の頭の牙の片方の一本はたしかに折れていたものの、それは革命に参加してからのことだった。あるとき馬を飛ばしていて、あまりに飛ばしていたために馬が仲間の兵士の一人を蹴倒してしまったのだ。象の頭はすぐに馬をとめて、飛びおりて兵士が傷ついていないかどうかを確かめようとしたのだった。その兵士が、かつて学校の同級生で、貧乏だった象の頭とはくらべものにならないくらいの金持で、象の頭は、その長い鼻はオヤジさんが戦争にいってるあいだにオフクロさんがさびしさのあまりに風呂でみずからの身体の汗とか垢とかでもって、乳房が張って乳もあふれただろうと同様に尿だって、糞だって、屁だって、オヤジさんの精のようにも、それくらいには血だって、卵だって、それらを粘土のように、子供の泥遊びのように、大人だって海辺で砂遊びをするように、史手はいけないことがあるはずもないように、まぜて、こねて、こさえたものだろう、それが象の頭だろう、その長い鼻だろうと学校において他の生徒たちも教師もいるところで嘲われたものだから石を投げて頭にぶつけてやったら泣きべそをかいて逃げていったものの、その金持のオヤジさんがすぐに駆けつけてきて象の頭を殴って、蹴って、オヤジさんだけでなしに学校の教師までもいっしょになって殴って、蹴って、貧乏のくせに、しかも象の頭のくせに。象の頭は逃げだして、それ以来二度と学校には足もむけなくなった。オフクロさんのもとにもオヤジさんのもとにも戻らなくなった。そのまま革命へ。この世界では、このままでは貧乏と金持とがそれだけのことで平等なる正当なるあつかいをうけることはないのだ、自由は金持のためであって貧乏のためではないのだと肝にめいじるままに革命へ。そのときの、そんな金持の子供だったのにもかかわらず、もっともその子供も、やがて革命に参加するだけの何かがあったということにはなるのだろうが、そのオヤジさんがそののちにおいてどうしたのかまではわからなかった、わかるはずもなかったものの、しかし馬のほうはそれまで飛ばしていたことでいささかならず気を荒くしていて象の頭を蹴りとばしてしまった。気がついたときは二週間の意識不明から目をさましたときで、さながら馬ではなくて鼠に乗っていたところに前を蛇がとおったものだから象の頭のほうはともかくにしても鼠のほうが、たとえ象の頭を乗せるだけの、八〇〇万年前に棲息していた体長三メートルの体重七〇〇キログラムのものとか、四〇〇万年前に棲息していた体長三メートルの体重一トンの頭骨だけでも五〇センチメートルの前歯だけでも一〇センチメートルのものとかだったとしても蛇には驚いて躓いて転んでしまって、そんないささか不可解なる夢から目をさましたようで、牙が片側の一本のみとはいえ、折れていたというわけだ。 ほんとうは人前にでることが恥ずかしい、 ということだった、象の頭は。 こんな折れた牙で、人前に出て、 なんだあいつは、牙が折れてるじゃないか、 と嘲われるんじゃないかと、いつだって不安だ。 象の頭の牙が折れていることは、象の頭のことを知らないものでも知らないものはいないくらいだというのに。 それとこれとは別だろう。耳にしていることと、いざほんとうに目にすることとでは、口にすることとでは違ってくるというものだろう。 革命においてなら、牙が折れていようが鼻が曲がっていようが、どんな傷を負っていようが、それそのものが一つの勲章にちがいないだろうに。 それはそうだが、そもそも象の頭であることからして嘲われるんじゃないかということだ、 まだ、子供のころのことを気にしているのか。 それももちろん大きいが、しかし革命はあくまで一部の人間の国によるものではなくて、多くの人間の民によるものだ。その多くの民の期待を裏切らないですむものかどうか。 革命の英雄の一人が象の頭であることを知らないものなんて、革命を知らないものでもいないくらいだというのに。 民の、自分たちの革命が、歴史が、そしてその英雄が、象の頭でもって馬鹿にされているというように思われないといいんだが。 象の頭であれ牛の頭であれ何の頭であれ、革命であることにはちがいないだろう。革命のために帝国に抵抗している、戦っている、民のためにも、そういうことにかわりはないだろう。そういうことのための革命だろう、革命によって象の頭ではなくなって誰からも嘲われないために馬鹿にされないために、そういうことではないだろう。 それはそうだ。 そうだろう。 革命は俺のためのものではない、 象の頭であれ馬の頭であれ何の頭であれ、頭に鹿の角であれ、金持であれ貧乏であれ誰もが自由に平等に公平に公正に生きていける世界のための革命だろう。 しかしそういうことをわかってもらうためには、まだまだ俺には戦いがたりないということだ。まだまだ俺が自分の子供のころのことにとらわれたままだから、まだまだこれからも戦いつづけなければならないということだ。 たしかに、象の頭であることを嘲って馬鹿にするものもいるかもしれないが、しかしそれだけに、象の頭であることでもってこそ、革命を理解できるというものもいるだろうに。 それはそうだ。 そうだろう。 そうだといい。 オフクロさんもオヤジさんも象の頭ではなかった、そんなことはなかったのだ。オヤジさんもオフクロさんも象の頭だった。それぞれの血だの地だのといったところのすべてがそうであるわけではなかったが、しかしオフクロさんとオヤジさんをはじめとして象の頭であるところは帝国によって殺されていた。それは革命と帝国との戦いによって、戦場でもって犠牲になったということではなかった。象の頭が革命の英雄であるために、象の頭のオヤジさんとオフクロさんと、その血とか地とかをはじめとして、その血とか地とかとかかわりのないものですら、帝国が処刑したのだった、狩るようにも、ただただ象の頭であるというだけのことで、革命のことなど知らないものまで。むしろ革命に参加しているものには抵抗の術があるだけに、参加していないもののほうから、革命のことなど知らないもののほうから、かかわりのないもののほうから、つまりは弱いものからということになるだろう、それは革命の英雄としての象の頭が知っているだけでも六六人ということだった。血とか地とかにおいて二七人、それ以外において三九人。* しかし革命の中途において、象の頭は病をわずらって戦線を離脱することとなった。それまで九度の負傷をおったところで、そのたびに、すこしもめげることなく、愚痴もこぼさずに戦線に復帰してきたものの、病をわずらうことははじめてであった。それからはみずからの折れた牙を剣として若者の訓練にいそしみつつも、折れた牙を筆にもして、みずからが参加した革命についての記録をのこすことにも励んだということだ。参考松岡洋子訳、エドガー・スノー『増補決定版 中国の赤い星』(筑摩叢書)http://ameblo.jp/oldworld/http://umafan.blog72.fc2.com/andwikipedia
- 誘われるんだけど、だけど、 面倒だ。 嫌だ。 そんな自分の気持はよくわかってる。断りたい、ほんとうは。そんな自分の気持をわかっているどころか、誘われて連れられていったらどういうことになるものか、それもよくわかってる。たいして美味しくもないものに、馬鹿にならないくらいどころか馬鹿みたいに高い勘定を払わされて、奢ってもらったって食べたくないくらいの美味しくないものに身銭をきらされて、それでいてここはどこそこよりも美味しいとかどこそこよりも美味しくないとか、話題はそれだけ。ほんとうにそれだけしか話題はない。しかも美味しいか美味しくないか、それは自分の舌とか足とかによるんじゃない。何らかの権威に追従して、その権威と自分を同一化しているだけ。仕事はもちろんのこと、そんな道楽においてだって自分で責任をとるつもりなんか毛頭ないんだ。それでいて、それだけのために働いている。道楽のために働いているんであって、働くための道楽なんかじゃない。だから仕事もろくろくできないままで、できるだけ働かないで、適当に道楽のためのカネとチカラとだけをえようとしているわけなんだが、つまりは慰安のための戦争であって戦争のための慰安なんかじゃないというも同然のこと。それを可能とするために、許可されるためにも認知されるためにも権威とできるだけ一体化すればいいということ。権威から命じられることには強いられてでも黙って従って、それでいてできるだけ働かないで責任をとらないで。そうとわかっているのに、どうして断らないでいられるものか。だけど、どうやって断ったらいいものか。するときみが迎えにきてくれるんだよ、このところ。 そうかね。 迎えにきてくれて、一言だけ、 帰るよ。 と口にして、背を向けて歩いていってしまうものだから、わたしはそのあとを追いかけなければならなくなる。しかしそのおかげで、きみが迎えにきてくれて、そのあとを追いかけなければならなくなるから誘われていることを断ることができるというわけだ。 かっこいいな。 そうだな。 怒ってるわけじゃないんだろう。 怒ってなんかいない。迎えにきてくれてるんだから。 迎えにはきたものの、きみが、わけのわからない、見るからにわたしが腹をたてるような連中に誘われているところをまのあたりにすることで、呆れて、怒って、それで背をむけておいていってしまうというのではないということかね。 怒ってなんかいない。 帰るよ。 なんだから。優しい声だよ。怒ってるんなら、
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