安保だか戦争だか独裁だか軍国だかのための法案を反対するにあたって、つまりはこの国の平和憲法を護るためにもということになるでしょう、そのためのハンストという手段を批判します、反対します。もっともハンストというスタイルが、本来はデモとかSNSとかが、つまりは表現の自由が許されていない環境におけるもの、その最後の手段のようなものであって、それにくらべたら、表現の自由のまがりなりにも認められて許されている国家において、その民衆として、ふさわしいものではない、そんなことによるのではありません。そんな、逆に考えたらハンストでもって訴えたならば、その民衆は、その国家は、すなわち発展途上である、貧困である、そんな理論展開にもなりかねない、そんなイメージとカテゴライズとが先行されてもしかたがない、つまりは差別的であってもいたしかたがない、そんなことによるのではありません。デモとかSNSとかがいくら自由であったところで民衆の訴えが権力に届くとはかぎらないからです。むしろ、自由であればあるだけに、自由があればあるだけに、権力から自由があたえられていればあたえられているだけに権力によって飼いならされるということにもなりかねないからです。状況によっては表現の自由があるにしたところで、ハンストでもっても自死でもっても訴えざるをえないこともあるかもしれません。しかし、平和憲法を護るためということならば、ハンストについても自死についても批判せざるをえません、反対せざるをえません。なぜなら平和憲法はかつてのこの国の戦争への反省によるものだからです。かつてのこの国の戦争への反省の一つとして、国家のために、祖国のために戦うのではなくて、それ以前に、頭ごなしにも、国家のために死ななければならなかったということがあるからです。そのことへの反省がなければ平和憲法も意味がないというものでしょう。そのことへの反省がないのならば、たとえ戦争のための武力ではないにしても、防衛のための抑止のための武力はもたざるをえないにしても、しかしやはり国家を守るためには死ななければならないということになるでしょう。守るということよりも死ななければならない。死んでこそ、守れなかったとしても守ったことになる、死んでこそ、英霊としてほんとうに守ることになる、そんなことになるでしょう、またしても。だから、たとえ平和憲法を護るためであれ、そのためになら死んでもいいというような方法は、たとえパフォーマンスにすぎないのであれ、たとえファッションの次元でしかないのであれ、たとえ社会人になったらこんなことは二度とできないからといった学生のうちのオモイデヅクリのようなことでしかないのであれ、選択してはならないでしょう。そんな手段にいたらないように頭をつかってみせるべきでしょう。たとえば戦争にいたらないための外交努力というように。それでこそ平和憲法を護るということになるでしょう。平和憲法をただただ護ればいい、平和憲法がただただあればいい、そのためになら戦争さえしなければ何をやったっていい、そんなことではないのならば。平和憲法がかつての戦争への反省という歴史認識であることを忘れていないのならば。
Kimra Iron's Ownd/鉄考書
木村鉄に才能はありません。 が、そこからしか考えることも書くことも、できません。 詩のように小説を。 小説のように詩を。 物語は、 理論として構成として構想として概念として。
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